聴いたCD

ショスタコ交響曲No6。バルシャイの全集盤では3回目。この曲も起き抜けには良い。なんか暗闇の中でもぞもぞしながら目が覚めてきて、やがて血液と血圧が紅潮してくると、最後は物凄くカッコ良くアグレッシヴな気分になる。
ショスタコ交響曲No1。20の時の天才そのものの曲。バルシャイの全集盤で3回目。この曲は何度も聴いているが、今日初めて、No15との相似に気がついた。ショスタコ最後の交響曲ではNo1を回想したのだろうか。
ショスタコ交響曲No9、バルシャイの全集盤で3回目。非常に漫画チックでみんなを怒らせた曲。

競馬

2レース、9番のスマートプログレスがパドックでケツ歩き。スマートプログレスというような頭とケツの文字が同じ、いわゆるカサブランカ馬はその隣、隣枠が臭い。で、人気のない10番の単複と8番の複勝だけ買ってみていると10番は来なかったが、8番が3着で複勝が¥620。おかげで少し浮いた。6レース、6番馬が2番人気でケツ歩き。こういう場合の勝負確率は非常に高い。結果、惜しくも2着だったが複勝¥150でちゃら。大阪杯は地名レース。馬名に関係のあるのはアサクサキングスだけ。しかも6枠6番馬。浅草六区は買わなきゃと単複を買うと、3着で複勝¥330。東京の最終12レースは1番人気の7番馬がケツ歩き。こういう場合、単勝率5割、複勝率8割で単複を買うと惜しくも3着で¥160。馬券はかなり当たっているけど全部複勝なので儲けは少ない。当たっているのに不満を言うと競馬の神様に怒られるので、ありがとうございました。  

カラヤンの傲慢不遜な悪行の数々

私は勝手にオーケストラの編成を大きくし、ピッチもA-445にするような自己中で傲慢なカラヤンが嫌いだった。しかし、昨日カラヤン生誕百年という馬鹿騒ぎが気になり、グローヴの音楽辞典を覗くと予想通り悪行はいっさい書かず、有名になったのはすべて、カラヤンの企画という感じでもう全く反吐が出そうになる。そこで、前に紹介した「誰がクラシックをダメにしたか」に書かれているカラヤン関係の文章を紹介しよう。

p175 1955年、カラヤンベルリン・フィルの終身指揮者に任命されると、原則的に、
彼および彼のソリストにはヨーロッパのどこよりも高い報酬を支払うことを要求し
た。彼のスタート時の報酬は、ひと晩2000マルクで、それは当時ヨーロッパの
トップだったロンドンで音楽家の稼ぐ額の50%増しだった。彼は1956年九月、
音楽監督になったウィーン国立歌劇場でも同じ条件を要求した。彼が交渉して
獲得した国家の補助金は400万ドルに達し、それは、彼を地球上でもっとも
金持ちで、もっとも妬まれるオペラ監督にした。そして、ベルリンでの演奏家たち
の彼への忠誠は、高額のサラリーとレコード契約によって買われたものだった。
彼らが不満を言う時にはいつでも、カラヤンザルツブルクやウィーンに行って
しまう。すると、もうひとつの独立国オーストリアが埋め合わせの金を調達して
くれるのだった。
p176 彼のレコードの多くは、国からサラリーをもらっているベルリン・フィル楽員の
リハーサルのあいだに、あるいはオーストリア政府から経費が支給されている
ザルツブルク音楽祭のときに録音されたものだ。もしもレコード会社が、カラヤン
や彼のオーケストラに、コマーシャル・ベースで報酬を支払ったならば、彼の
レコードはとても手の届かない高額になっただろうし、制作枚数も半分にしか
ならなかっただろう。
p176 1985年、台湾への旅行が中止になったとき、<シュピーゲル>誌によって彼の
強欲が暴かれた。指揮者は、一回のコンサート当たり30万マルクと、当地の
テレビで十本の彼の演奏会の映画をシリーズで放映することを要求し、台湾人を
憤慨させたのだ。その年楽団に1900万マルクをつぎこんでいたベルリンの
納税者たちは、当然ながら、こけにされたと感じた。カラヤンは、問いつめられて
もなんら反省の色を示さなかった。
p177 事務担当者が支出の洪水を食い止めようと企てると、カラヤン1864年八月
「健康上の理由」を口実に、ウィーン国立歌劇場をやめてしまう。真実を語るなら
ば、彼はウィーンに飽きたのだった。もっと実際的に言えば、彼はすべてを絞り
取り尽くしてしまったのである。
p177 彼はまた、ザルツブルク音楽祭の監督も辞任した。しかし、それはたんなる策略
にすぎず、彼は、追従者で構成された理事会をコントロールしつづけ、ザルツブ
ルクに900万ドルの支出をさせて、年に三十日の使用のために祝祭劇場を建設
させた。二度にわたる公的な調査が、ザルツブルクにおけるカラヤンのまぎれも
ない腐敗を解明したが、それは非常に範囲の狭い調査だった。カラヤンのレコー
ド・レーベルだけが音楽祭の開催時期に宣伝スペースを確保できて、彼の気に
入ったアーティストだけが舞台に立つのだと言うことは、観光客の目にさえも
明らかだった。オーストリア市民の払った税金で制作されたオペラ作品は、カラヤ
ンの会社テレモンディアルによって映画化され、市場に出された。
p178 カラヤンが死んだ時には、高額の報酬で音楽家を支配する彼のやりかたの影響
がすっかり定着して、ドイツのどこでも凡庸な指揮者が一つの演奏会で一万マル
クも要求し、オーケストラは彼らの要求に首を絞められて窒息寸前というありさ
になっていた。カラヤン自身も彼の周辺の誰もが、公共の資金が深刻に不足し、
演奏会を開くために金乞いに回らざるを得ない時代がやってこようとは、想像
だにしなかったのだ。