誰がクラシックをだめにしたか。続き。

とても興奮を呼ぶ内容で、メモだらけ。我々には全く知らされていないプロモーションの歴史。この間大金はたいて買ったグローヴの音楽辞典に興奮していたがこの本を読んで全くがっかりしている。この本に出てくる有名なマネージャー、ヴォルフ商会とか、CBSコロムビア)の創業者、ジャドソンについてはただの一行も書いていない。コンサートの歴史にしても音楽家の努力や社会情勢のことばかりのきれい事だらけ。洋の東西を問わず音楽家なんて社会常識に欠けた欠陥人間ばかりで、それらを束ねて動いたプロモーターをいなかったことにしてしまう音楽史にはうんざりする。
少し本文から引用してみよう。

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p37 有名音楽家の招聘というアイデアはドイツ生のコヴェントガーデンのヴァイオリニ
スト、ヨハン・ペーター・ザロモンによる。ハイドンエステルハージー侯が1790
年、9・28に死んだ後、無禄のままウィーンに移り住んでいることを耳にすると、彼
は直ちにウィーンに向かい、困窮しているハイドンに言った。「わたしはザロモン
と申します。あなたをロンドンへお招きしたい一心でロンドンから参りました。
さっそく明日にでも契約を結ばさせていただきたいと存じます」.ハイドンは60歳
に近かったが、一度も故国オーストリアの外に出たことはなかった。モーツァルト
はこの旅には多くの危難が伴うと強く警告した。ハイドンは、しかし二度にわたっ
てイギリスを訪れ、12曲の交響曲を作曲し、十分な額の年金と、ヨーロッパ中
に鳴り響く名声、オックスフォード大学の名誉学位、国王ジョージ三世からの
讃辞を得て、民衆の歓呼のなか、1795年故国に錦を飾る。


p41 女性たちは、リストを取り囲み、彼の髪の毛をむしり取ったり、喫った葉巻の吸い
さしを集めては、熱い思いで波打つ胸の谷間に秘めた。ハイネはこんな熱狂ぶ
りを臨床医のように観察して「リストマニア」という病名をつけた。
P43 ベッローニによってリストはモスクワでは一週間で一軒の家が買える収入を
稼いだ。


p48 およそ不釣り合いな二人、バーナム(詐欺師的興行師)とジェニー・リンドが後世に残したのは
スター歌手とその他大勢の歌手たちとのあいだの明確な境界線である。1870年代において、
パッティは<椿姫>のヴィオレッタ役を歌えば一回の公演で5000ドルの収入を
得ていた。当時、イタリアの小都市の歌劇場で<椿姫>のプリマドンナたちの
得る収入は」およそ2ドルにすぎなかった。1896年ネリー・メルバは、メトで
最高のプリマドンナとしてひと晩の公演で1600ドル得たが、共演したメゾ・ソプ
ラノ歌手には48ドルが支払われただけだった。


p51 アメリカ最初のオペラ上演は、1825年のガルシア一家の歌手たちによる<セビ
リヤの理髪師>であった。つづいてアメリカに移住したモーツァルトの台本作家
ロレンツォ・ダ・ポンテが「世界最高のオペラ<ドン・ジョヴァンニ>を上演した。
それから10年たたぬうちに、NYには四つの歌劇場が稼働していた。


P58 NYのオペラ界の浄化を開始させたのは、1883年のメトの誕生であった。音楽
アカデミーに不満を抱いていた成金の株式ブローカーたちが、資金を出し合って
建設したこのオペラ座は、オランダ移民貴族によって運営され、ユダヤ人が
その株式を保有することを禁じていた。


p60 ハンブルク市から許可を受けたポリーニは、マーラーに芸術監督の地位を約束
したが、配役と演出に関して発言権を認めなかった。歌劇場から家に帰ると
マーラーは、両手をごしごしと真っ赤に成るほどにこすって洗い、丁寧にうがいを
したが、それはポリーニの毒を洗い流すためだった。ポリーニが病気になり、
マーラーの行動を規制できなくなってはじめてマーラーは解放された。



p62 ピアノの製作と販売の支配権をめぐって二つの会社が争った。1823年にボスト
ンで設立されたチッカリング&サンズ社と、ドイツの家具メーカーのシュタイン
ヴェーグと彼の四人の息子たちによって1853年にNYに設立されたスタインウェイ
社である。
p62 問題は、高級ブランドのピアノをいかにして民衆に買わせるかだった。というのは、
「スタインメイ」とか「シャムウェイ」といった紛らわしい綴りの商標をつけた、安い
まがいもののピアノがすでに広く売られていたからである。
p62 ウィリアム・スタンウェイは、有名ピアニストを味方につけ、彼らに自社製品を
使用した全米演奏旅行を行わせれば、スタンウェイの名を付けることが頭に
植え付けることができると考えた。彼が選んだピアニストは、アントン・ルビンシ
テインだった。
p62 1872年にルビンシタインをアメリカに送り込んだのは、かつてストラコッシュの
助手をしていたグラウであった。彼は8ヶ月間に215回のコンサートを開くという
演奏旅行を計画した。それは、ポーランド出身で気分屋のヴァイオリニスト、
ヴィエニャフスキと二人の歌手、そして室内オーケストラを伴うものでだった。
一日に2、3の都市を駆け回ることもあった。「ルービ」という愛称で呼ばれたこの
ロシア人ピアニストは金貨で8万ドルの報酬を得た。「ワイン・アンド・ウィスキー
(Wine-and-Whiskey)というあだ名のついたヴィエニャフスキはその半分の
4万ドルを手にした。この二人はつまらないことで絶え間なく喧嘩した。グラウは
嫌気がさして、演奏旅行の途中でエージェントの役割を降り、残りを24歳の甥
モーリスに任せた。
p63 悔しがったチッカリング社はストラコッシュのパートナーだったウルマンを雇い、
ビューローをロシア演奏に向かわせた。ビューローは、ここでチャイコフスキー
音楽を発見する。
p63 1875年11月18日、ビューローはチッカリング社の本拠ボストンでアメリカ最初の
演奏会を行った.......一週間後、チャイコフスキーのピアノ協奏曲の世界初演
を行った。ニコライが「くだらない、そして演奏不可能な曲」として突き返した
この雄大な構想の協奏曲の楽譜をチャイコフスキーはビューローに送ったの
だった。ビューローの演奏は大喝采を博し、彼は第3楽章を繰り返さなければ
ならなかった。
p64 スタンウェイとチッカリング両社のおかげで、優れたピアニストたちの活躍の
舞台が設けられただけでなく、それら独奏家たちが登場したすべての場所で
新しいオーケストラが誕生した。
セオドア・トーマスはNY、ブルックリン、シンシナティそしてシカゴに次々と新しい
交響楽団を結成していった。
南北戦争の英雄であったヘンリー・リー・ヒギンソン少佐は、1881年にボストン
交響楽団を設立し、それをプロのオーケストラに仕上げるために、ライプツィヒ
から、大指揮者ニキシュを招聘した.第一次大戦のはじめるまでに、ひとかどの
都市で、オーケストラを持たないところはなかった。


p65 ベルリンでは、疲れきった様子のルビンシテインがボーテ&ボック音楽店に立ち
寄ると、心優しい店主に悩みを打ち明けた。「わたしは家族を養うために、世界
中を旅して回るわけだが、コンサートを企画し、巡業の際の日常の世話をして
くれる人が欲しいのだよ」店主のボックは「それにぴったりの人を知っています」
と答えて、そのとき店内で忙しそうに仕事をしていたヘルマン・ヴォルフという
店員にカウンター越しに声をかけた。活発な起業家精神の持ち主であるヴォル
フが、平凡な音楽店の店員で生涯を送るような人間ではないことを、ボックは
知っていた。
p68 ヴォルフはルビンシテインと一緒にシレジアからヘルツェゴヴィナまで、雪におお
われた高原を馬車で行くのは難行だったが、さらにアントンが食事に関して
ユダヤ人ゆえの特異な食習慣をかたくなに守り、好色的傾向を強く持つという
条件が加わった。料理が「自然に」調理されていないと、どんなレストランからも
ルビンシテインは荒々しく飛び出していった。彼の相手をする女性を捜すために
は、泥道を50マイルも迂回することを辞さなかった。次に彼がエージェントを務
めたハンス・フォン・ビューローは、はなはだしい人間嫌いであり、自殺しかねないほど憂鬱症
に落ち込むことがあった。二階の部屋の窓は、彼がそこから飛び降りないよう、
釘でしっかりと閉ざす必要があった。
p69 35歳で彼はヘルマン・ヴォルフ音楽事務所を設立した。彼の擁する音楽家には
ルビンシテイン、ビューローの他にヴァイオリンのヨアヒム、彼の妻でソプラノ歌手
のアマーリエ、ルビンシテインの演奏会で出会ったフランスの作曲家カミーユ
サンサーンス、ベルギーのテノール歌手エルネスト・ファン・デイク、ピアニストの
オイゲン・ダルベールとエミール・ザウアーがいた。ヴォルフはまた、メトのアビー、
シェッフェル、グラウらのヨーロッパ代理人として新人音楽家たちのスカウト役を
務めた。

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やっとヴォルフが出てきた。また次の機会に報告しよう。